11/6の殴り書き

BSフジ「冗談騎士」の空気階段が初めて出た回での、例の放送作家からのアドバイス

「もぐらは、おじさんを演じるには実年齢が若すぎる。おじさん感が足りない」

これが自分の中ではずーっとしっくりきていなくて、何かにつけて考えていたのだけど。


きょう初めて神田松之丞の講談を見て、このことが頭によぎって思うところがあったので書いておきたい。

赤穂義士銘々伝」より「神崎の詫び証文」という演目。

内容や松之丞の講談がどうだったということはとてもじゃないが触れられないけれど、この話に出てくる丑五郎という呑んだくれ男を空気階段鈴木もぐらがコントで演じるおじさんと重ね合わせてしまった。

最初は丑五郎の単に頓珍漢な言動(を演じる松之丞)が面白かったのだが、だんだん舞台上には丑五郎がいるように感じて、丑五郎の一挙一動に釘付けになっていたと思う。

勝手に、ほんのり赤ら顔で歯も何本か抜けていて、間抜け面をした男の姿を作り上げていた。

高座の神田松之丞という人は、そんな男とは全くかけ離れているのに。

初めて聴く講談でこんなにのめり込むとは思わなかった。松之丞を観に来て松之丞でない人に感動させられた気がした。

 

わたしは演じる人と演じる役柄に多少乖離があっていいと思う。結果、その乖離を笑うことになったとしても。

それに、登場人物の滑稽さを笑うのか、滑稽な人物を演じる人を滑稽だと思うのかは自由だし。


でもやっぱり、役を演じる人が一瞬でも役から遠いように見えたからと言ってそれを弱点というのは、違う気がする。

例えば、はっきり「演技力が足りない」というならわかるけど、なんとなく「まだ若いのに、おじさんのコントなんかやって。ほら、シワも書いてるし、肌もよく見たらピチピチだぜ!」って感想が透けて見えたのかもしれない。それじゃなんもできねぇじゃん。


役に入ってる人を観てる以上は、観客もそこからオリるな。


…なんてな。